浮世絵で見る日本橋

第3回 鎧(よろい)の渡し 小網町

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:三井なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

美しい街並みとは…

先週、金沢に行ってきたので蔵三さんにもお土産です。俵屋の飴。天保元年創業で、地元では有名な老舗なんですよ。

糖尿病患者に飴とは、お前さんも悪い意味で気が利くじゃないの。でも、俵屋の飴なら大好物だ。ありがたくいただいておきますよ。

それで、ちょっと気になったんですけど、金沢って東西の茶屋街とか、江戸時代からの古い街並みがすごく自然に残ってるじゃないですか。でも、江戸時代の中心だった東京にはそういう歴史を感じさせる街並みがほとんど残っていないですよね。日本橋にしたって国の重要文化財なのに首都高の真下で暗〜い雰囲気だし。

まぁ、その通りだね。要するに大東亜戦争で空襲に遭ったか遭わなかったかの違いだな。空襲を免れた金沢に対して、東京は壊滅的に破壊された。しかも東京の場合、それ以前にも大正時代に壊滅的な破壊を経験しているだろ。

あっ、関東大震災ね。



だから、逆に言えば震災前までの東京は江戸の匂いをかなり色濃く残していた。最大のポイントは水路だな。かつては“東洋のベニス”と讃えられたほど江戸、東京は美しい運河の街だった。大小の河川に加えて物流用の人工運河や上水道が毛細血管のように張り巡らされていたんだ。

それがほとんどなくなっちゃったのね。きれいだった頃の東京を見てみたいなぁ。

戦後、モータリゼーションの普及で運河が不要になったのと、首都高を作る際には、河川には地権者がいないから、土地の買い上げや立退き交渉をする必要がなかった。それでかつての美しかった河川や運河は首都高の日陰になってしまったわけ。これに加えて生活排水による汚染の問題なんかもあって、河川の暗渠化が進んだ。

建物なんかもほとんど残ってないの?


江戸時代から火災が多かったから、23区内に江戸時代より前に建てられた建築物は残っていない。今あるのは殆ど再建されたものなんだ。それでも震災や空襲を免れて今でも残っている貴重な江戸の建築物は、池上本門寺の五重塔とか芝増上寺の三解脱門なんかが代表格だな。

そうかぁ。じゃあ、広重さんの絵と同じ風景を探そうとしても、今は無理ってことね。

亀戸天神みたいに、ある部分だけ切り抜いた構図なら、さほど変わっていない場所もある。それでも、ちょっとズームアウトすれば背後にスカイツリーがドンと鎮座しているけどね。まぁ、それはさておき、今回のテーマである広重の『鎧(よろい)の渡し 小網町』(写真左)も、関東大震災前までは誰もが目にすることができた風景だ。

真っ白な蔵が並んでいて凄くきれいね。女の人の後ろ姿もいい感じ。ここって、今で言うとどの辺り?

小網町と対岸の兜町、茅場町を結ぶ兜橋のあたりだ。残念ながらここも今は首都高の下にあって昼でも暗い。

この絵に橋が描かれていないっていうことは、この時代には橋がなかったっていうことよね。

その通り。だから渡し舟で代用していた。江戸橋から湊橋まで約1キロの間、なぜ交通量の多いこの地に橋を架けなかったかは良くわからないけど、対岸に武家屋敷があったことと、たぶん今の感覚で言えば歩行者よりクルマを優先したということじゃないかな。当時、物流の主役は舟だからね。下総方面からの物資の集積地だった茅場町は陸路より水路を優先していたんじゃないかな。

でも、今の茅場町に倉庫とか物流っていうイメージはないわよね。

今はお隣が兜町っていうことで、金融街になっているからね。そもそも茅場町という地名はもともと茅原であったことに加えて、神田橋外にいた、屋根葺き用の茅を扱う商人たちが、江戸城建設に伴って家康の命でこの地に移転したからなんだ。

へぇ〜。それじゃあ、小網町とか兜町っていう地名にも由来があるの?

小網町は、前回話した幕府御用の漁師たちが一丁目あたりに網を干していたことから自然についたらしい。こうした漁業関係の地名は日本橋にたくさんあるだろ。蛎殻町とか小舟町とか浜町とか。兜町の場合、そういう理由ではなくて、地名がついたのが明治以降の話で、この絵が描かれた頃は牧野家の武家屋敷と坂本町があった。それ以前には江戸湊へ流れる河口という場所柄、向井氏とか九鬼氏といった水軍旗本の屋敷が並んでいたから特に地名はなかった。江戸時代、地名が付くのは町場といって庶民が住むゴチャゴチャした一画であって、広大な武家屋敷は誰でも知っているから住所も表札も必要なかったんだ。

じゃあ、どうしてそれが兜町なんて名前になったの? 鎧の渡しっていう名前も、もしかして関係あるの?

兜町は今の証券取引所のそばの兜神社が地名の由来で、鎧というのは鎧ヶ淵という古名から来ている。どちらも平将門と源義家にまつわる伝説が起源なんだ。都内にはこの二人に関する昔話がたくさん残っていて、地名の由来にもなっている。

ちなみに、どういう伝説なの?



戦勝祈願とか戦勝のお礼に義家が鎧を奉納したとか、藤原秀衡が、平将門の兜を埋めたとか、そういったものが多い。家康が入府するまで、太田道灌の江戸城ぐらいしか歴史の表舞台に登場しなかった江戸で、平安時代の伝説が数多く残っているのはちょっと不思議な気もするけどね。

そうかぁ〜。ちょっと気になるんだけど、手前の女の人も舟に乗ってる女の人も傘さしてるでしょ。雨は降ってないみたいだから、あれは日傘?

いいところに気がついたね。浴衣にツバメ、それに日傘と来てこれは夏の風景だ。茅場町には傘屋が多かったし、日傘は幕末に流行したからね。青い空と青い水面が背景になって、白壁と白いうなじ、ツバメの白い腹が映えるという、広重独特の色彩計算だな。

一枚の絵にいろんな意味を込めてるのね。やっぱり広重さん、凄いわ〜。

実は、その色彩を際だたせるために、広重は大胆なデフォルメと省略を加えているんだ。同じ場所を描いたこの絵を見てごらん(写真下)。


あれぇ? これって同じ場所? なんかイメージが違うなぁ。


こちらの『江戸名所図会』の方がリアルに描いてあるし、ディテールも細かい。ここは俗に“小網町河岸三十六蔵”と言われた倉庫群で、蔵にはそれぞれの店の屋号のようなマークが入っている。江戸時代にはこれを“しるし”と呼んでいたらしいけど、広重の絵にはそれが入っていないし、どう見ても蔵そのものが縦長過ぎる。

そう言われればそうね。どうしてそんな風に描いたのかな?


やっぱり細かく描きこんでしまうと、浴衣姿の女性と、立ち並ぶ白い蔵のコントラストが殺されてしまうからじゃないかな。ついでに空に黄色が足されているのも、真夏のどよ〜んとした空気感を表していて、なかなかシュールな表現だ。

うん。言われてみればそう思うけど、この黄色、現実にはない色なのに違和感がなかったわ。

舟の配置と遠近感も抜群だね。手前の舳先は重い物を運ぶ五大力船(ごだいりきせん)で、渡し舟に猪牙舟( ちょきぶね)、荷足舟(にたりぶね)と舟もさまざまだ。ところで、右端の舟に荷物が積んであるだろ。何を積んでると思う?

「茶」って書いてあるみたい。お茶じゃない?


広重研究で名高いコロンビア大学のヘンリー・D・スミス教授もそう解説しているんだけど、実はこれをもっと深読みした人がいる。『キーワードで引く経済英語表現辞典』の著者でもある森川和夫さんだ。

え? お茶じゃなかったらなんて読むの?


灘の銘酒「正宗」のロゴではないかということだ。正面から描いているので茶箱のように見えるけど、実際は酒樽ではないかという指摘だな。これはなかなか興味深い推察だ。浮世絵研究とはかくあるべし、という見本のようなものだね。

細かく見ていくと、いろんなものが発見できそうね。


この美しい蔵は、ほとんどが関東大震災で倒壊してしまったけど、機能的な倉庫群であっても、外観を揃えれば美しい街並みになるというひとつの見本でもある。前回のオリンピックでは首都高を作る際に川の景観を台無しにしてしまったけど、次回のオリンピックでは、機能に加えて景観を大切にする街づくりを考えて欲しいね。<次回へ続く>


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